第13~23回
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シカ肉のはなしその1
写真1
写真2
写真3
シカ肉のはなし2
西興部村のエゾシカ解体処理施設
さて現在エゾシカは増えすぎて、農林業被害や交通事故などが大きな社会問題になっています。北海道ではシカの数を減らすために、狩猟の規制緩和や有害駆除の奨励などを行ってきました。ここ数年は年間5万~7万頭ものシカを捕獲していますが、その肉は殆どが流通にのらず、多くは廃棄すらされているのが現状です。仮に年間5万頭のエゾシカを食肉として利用することを想定してみましょう。1頭から平均30kgの肉が取れるとすると、1500トンの鹿肉が生まれます。これを道民の人口568万人で割ってみると、264gとなります。つまり、道民みんなで年間たったの300gの鹿肉を食べれば、いま捕獲されているシカの肉を完全に消費することができるのです。ちなみに政府統計によると国民一人当たりの年間供給量は、牛肉で6kg、豚肉で12kg、鶏肉で10kgとなっています。さらに、1kgの鹿肉が3000円で売れるとすれば、1500トンのエゾシカ肉は45億円の価値を潜在していることになります。みなさんも、鹿肉を食べてみませんか?
角のはなしその1
今年9月11日の“ミミコ”の角。長さ約60cm
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今年5月9日の“ミミコ”の角。長さ12cm
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今年6月18日の“ミミコ”の角。長さ約50cm
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さて、5月9日の写真は生え始めてからおよそ1ヶ月たったもので、長さを測ったら12cmありました。そして6月19日のときには正確な長さは測れなかったのですが、見た目では50cmぐらいありました。約40日間の間に40cmちかくも伸びたことになり、1日あたりに直すと約1cmずつ伸びていったことになります。そしてこの後、この個体の角は10cmちかく伸びてから8月になって成長を終了し、1枚目の写真のように9月になって外側の皮が剥がれ始めたのです。こんな角が自分の頭にあったらと、想像するとおかしな気分になりませんか?(つづく)
角のはなしその2
オスジカはメスをめぐって角で争う
さて、ニホンジカ(エゾシカはニホンジカの亜種)をはじめとして世界に36種いるシカの仲間のうち、1種だけオスにもメスにも角があるシカがいるのをご存知ですか?それは、クリスマスにサンタのそりを引くといわれるトナカイです。なぜトナカイにはメスにも角があるのかというと、これには食べ物が関係していると考えられています。トナカイはユーラシア大陸から新大陸にかけての極北地域に生息しています。その地域は食物が極めて少なく、彼らはトナカイゴケという地衣類を主に食べています。このような状況ではオスメス問わず食物をめぐる個体間の競争が激しく、このためメスも角を生やすようになったと考えられています。ただ、トナカイのオスの角は他のシカ類同様、交尾期の武器として長く大きくて大変立派なのに対して、メスの角はオスほど大きくない可愛いものとなっています。
(2004年10月1日)
アイヌの人々とエゾシカ
村内で捕獲された鹿の皮を塩蔵している様子
北海道の先住民族アイヌの人々にとって、エゾシカは大変重要な動物でした。シカをアイヌ語でユクといいますが、これには食べ物という意味もあります。これはそれだけ鹿肉をよく食べていたという証拠でしょう。特に冬になると集落総出で巻き狩りを行い、沢の雪のたまりや崖の下に追い落として捕獲したそうです。肉は焼いたり煮たりして食べたり、また保存食にもしました。これはサカンケといって、肉を湯くぐししたものを、炉の上に上げて乾燥または燻製にしたものです。皮も重要な資源でした。毛革はチョッキのように羽織って防寒服にしましたし、毛を除いて柔らかくなめした革は女性の下着にしました。以前この連載の中でも紹介しましたが、実際、柔らかくなめした鹿皮はセーム皮ともいって柔らかく肌触りのいいものです。ところでアイヌの人々は動物や植物などを“カムイ”として神格化し崇拝していました。例えばヒグマはキムンカムイ(山の神)、シマフクロウはコタンコロカムイ(村の守護神)といいます。しかしシカについては神様としませんでした。これはその肉や皮などを利用する中で、彼らにとってより身近な存在だったからかもしれません。
(2004年10月15日)
北海道開拓とエゾシカ
明治初期、エゾシカの個体数は高い水準にあったと考えられています。北海道の原野は初期の開拓者にとって農業をするのに大変厳しい環境だったのでしょう。一部の人々は産業の対象としてエゾシカに目をつけました。彼らはエゾシカを大量に捕獲し、肉や皮、角などを外国に輸出したのです。当時の地方政府だった北海道開拓使は千歳市の美々に官営のシカ肉缶詰工場を設立し、アメリカなどに輸出していました。皮もフランスなどに輸出していました。国際社会に仲間入りした当時の貧乏な日本にとって、エゾシカは外貨を稼ぐ重要な自然資源だったのです。狩猟統計によると、明治6~8年(1873~1875年)には年間12万頭前後ものエゾシカが捕獲されていましたが、その後捕獲数は徐々に減少します。そして明治12年と14年(1879、1881年)に記録的な豪雪がエゾシカを襲い、大量のエゾシカが餓死したといわれています。こうして、乱獲と記録的な大雪によってエゾシカは絶滅寸前まで追い込まれ、明治23年(1890年)には全道的な禁猟になります。明治の開拓はエゾシカにとって受難の歴史だったのかもしれません。
エゾシカの爆発的増加
前述の大雪の直後の1890年から、政府は激減したエゾシカを保護するために全道的なシカの禁猟措置をとります。この禁猟の時期はその後断続的に46年間つづき、エゾシカの生息数は徐所に回復します。そこで政府は1950年代に入って日高・十勝・網走にオスジカの可猟区域を設定しました。その後もシカの数は増加し、分布も拡大していったため、農林業被害が目立つようになります。これによりシカの可猟区域も拡大していきました。1993年度には68市町村でシカの狩猟が行われるようになり、1994年度には期間と場所を限定してメスジカの狩猟が始まりました。狩猟と有害駆除による捕獲数は、1970年度に2,305頭、1980年度に3,469頭、1990年度に16,134頭、2000年度には71,721頭にも上っています。
このような近年のシカの爆発的増加の背景には、ひとつにエゾシカが増えやすく減りやすい動物だということがあります。メスは栄養状態がよければ満2歳から毎年1頭の子ジカを生み続けます。シカの仲間は、オオカミなどの天敵からの捕食や厳しい冬の気象によって、死亡率が高く「減りやすい」動物です。シカはこれらに対抗して、繁殖率が高いなど「増えやすい」形質を進化させてきたのです。天敵のエゾオオカミの絶滅と禁猟によって、明治以降のエゾシカには減る要素が少なくなりました。さらに近年の暖冬傾向はこれに拍車をかけます。また戦後の大規模草地の造成などによってシカの食物が増えたことも見逃せません。このようにエゾシカは増えていったのです。
エゾシカ保護管理計画
写真:エゾシカ保護管理計画
このような状況の中、道はエゾシカを適正に管理していくために、2000年にエゾシカ保護管理計画を策定します。この計画の目的は、シカによる被害を軽減をしつつ、シカの数を多すぎず少なすぎない範囲に誘導するというものです。シカは増えすぎると人間に大きな問題を引き起こしますし、逆に減りすぎて絶滅するようではいけません。このために科学的な調査に基づいて、毎年個体数の増減の傾向をチェックして、狩猟や有害駆除などによる捕獲圧を調整していくという計画です。これにより、増えすぎたシカを減らすために毎年6万から8万頭のシカを捕獲しました。道の調査によれば、個体数の傾向は1996年のピーク時と比べて、2002年にはその6割ぐらいまで減らすことができたといいます。また道は被害対策にも力を入れました。例えば被害の大きな道東地域では、シカを農地から締め出す電気柵やネットフェンスを張りました。この総延長は2600km以上にも及んでいます。これらの結果、農林業被害額は1996年度の50億円から2002年度には30億円を下回るようになりました。このようにエゾシカ保護管理計画はある程度の成果を収めたといえるでしょう。しかし、つい最近は再びシカの数が増加してきた可能性のあることが明らかになったり、農林業被害額が一時期よりは減ったとはいえ数十億円もあるなど、依然として予断を許せない状況であると思います。
狩猟獣としてのシカ
エルク(右)とミュールジカ(左)のトロフィー。モンタナ州野生動物局にて
狩猟は、ライセンスを購入したハンターが様々な決まりを守って、猟銃などで野生動物を捕獲するスポーツです。捕獲できる動物は狩猟鳥獣として決まっていて、その中にシカも含まれています。日本では狩猟を楽しむハンターの数は十数万人と、一般的なスポーツとはいえませんが、欧米ではスポーツハンティングは代表的なアウトドアスポーツとして釣りと並んでとても人気があります。ちなみに去年私が視察したアメリカのモンタナ州は全米でも最も狩猟がポピュラーな州ですが、州民の4人に一人がライセンスを買って狩猟を楽しみます。シカは狩猟鳥獣の中でも大型なためビッグゲームとして人気があり、捕獲された大きなオスジカの角はトロフィーとしてハンターの勲章になります。特にエゾシカはニホンジカの中でも最も大型なので、北海道でのエゾシカ猟は内地のハンターの憧れともなっているようです。毎年数千人のハンターが雄大な北海道の自然の中でエゾシカを獲るために訪れますが、これによる宿泊や食事など経済波及効果はばかになりません。このようにエゾシカには狩猟獣として大きな魅力と価値を秘めているのです。
新年号:NPO法人 西興部村猟区管理協会の活動紹介
前回まで、明治時代以前から現在に至るエゾシカと人間の歴史について触れ、狩猟獣としてのシカの魅力について紹介しました。私たちは、シカを捕獲することによってシカによる農林業被害を軽減し、シカなど村内の狩猟鳥獣を地域の自然資源として有効に活用し、地域経済に貢献することを目的とした活動をしています。これにより、野生動物管理の地域モデルを構築したいと考えています。猟区とは、「鳥獣保護及び狩猟の適正化に関する法律」に基づいた制度で、入猟者数・入猟日・捕獲対象鳥獣の種類・捕獲数などについて管理者が独自の管理をすることができる有料の猟場です。昨年7月に北海道から西興部村全域での猟区開設の認可を受け、昨年10月25日から北海道で唯一の猟区ということで「西興部村猟区」がスタートしました。西興部村猟区では事前に申し込みをしたハンターしか狩猟できません。かつ必ず地元ガイドをつけなければなりません。これにより、危険な発砲やシカの残滓の放置を防ぐことができ、安全でマナーのよい狩猟の実現につながるのです。昨年末までに10数名の入猟があり、殆どのお客さんがシカの捕獲に成功しています。また、私たちの活動のもうひとつの柱に、新人ハンターの教育があります。近年全国的に農林業被害など野生動物と人間との軋轢が深刻化しています。しかし一方ではこれに対応するためのハンターの人口減少と高齢化が問題になっています。そこで私たちは初心者ハンターに狩猟技術を伝え、次世代のハンターを増やすために狩猟セミナーを実施しています。今年の抱負としては、今年スタートした猟区の運営をますます発展させることです。特に入猟者数の増加と、適正に猟区を管理していくための西興部村エゾシカ保護管理計画の作成を目標にしたいと思います。
最後に私の自己紹介ですが、出身は神奈川県横浜市です。9年前に知床国立公園の知床自然センターでクマの調査補助員をするために北海道に移り住みました。その後北海道大学の大学院に所属し、釧路地方の白糠町でエゾシカの調査に携わりました。ここではシカに発信機をつけて日夜シカを追跡していました。西興部村に来たのは一昨年の10月、猟区開設の予備調査のためでした。その後、昨年1月から当協会のスタッフとして西興部村に在住しています。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
NPO法人 西興部村猟区管理協会の活動紹介その2
新人ハンターセミナーでのヒトコマ